07/15
Tue
2008
これはレポート用とは多少異なります、そっくりそのままはまずい気がしたんでwww
原文が欲しい人はいってくだしwwwたぶん渡します@p@
テーマ:エゴイズム
はじめに
利己主義(エゴイズム)の定義を述べておく。
①自己の利害だけを行為の基準とし、社会一般の利害を念頭に置かない考え方。⇔利他主義
②人間の利己心から出発して道徳の原理や観念を説明しようとする倫理学の立場
つまり「自分の利益(利益とは、幸福や快楽などを含む広い意味での利益を指す)を目指して、他社の利益を軽視、無視する考え方」
<1>
まず、定義を前提にし「人間はエゴイストであるかどうか」であるかを私自身の周りで考えてみた。
ゴミの分別が面倒だから、まとめて捨てる。人が迷惑しているかを考えずに、歩きタバコをする。電車で、シルバーシートの付近で携帯を使う。急いでるからといって、車で時間帯進入禁止 のところを通る。路上に車をとめる。火事になったてる家を見ながら、自分の家まで燃えなくてよかったと思う。コンビニなどに家庭用ゴミを捨てる。公共の机に落書きをする。いやがってる人に酒を飲めと いう。他の国に害があると知りつつ、知らぬふりをして今の生活を享受する。
このように、挙げていくときりがない。まるで他人への関心、あるいは他人への配慮などないかのように、われわれは日々生きているように思える。
しかしながら、利他主義(エゴイズム)とか利己主義(エゴイスト)という言葉は、人から非難されるときに用いられるのが普通である。「このエゴイスト!」と強い調子でいわれるときには、怒りや非難を含む言い方であると思われる。
ニコニコしながら、人を賞賛するために言われることは、まずありえない。
そして結論から述べると、「人間はエゴイストである」と考えている。
それにあわせ、利己主義が人間の本質なら、なぜ「エゴイスト」と賞賛されることがないのだろうかも考え述べていきたいと思う。
<2>
まず、利己主義を考えるときに、心理学的利己主義と倫理的利己主義の二つに分けられることがあるみたいなので。
一つずつ思考してみようと思う。
最初に、心理学的利己主義の定義とは、
「人間の行為は自分自身の利害に常に動機付けられている」
つまり、「誰もが自分の利益しか求めないようにできている。やることなすこと、すべて自分の利益のことだけである」ということみたいだ。
先ほど、私は人間はエゴイズムであると述べた。しかしながら、心理学的利己主義は間違っていると述べさせてもらう。
まず、心理学的利己主義を擁護する人の例としては、
「合理的に会社を運営する経営者などではないだろうか」
確かに、利益しか求めないことを前提として合理的に行動している、もしくはそれを理念として運営しているのであろう。
しかしながら、この経営者が常にそうかと言われれば、違うと思われる。
身近な例を挙げようと思う。
「ほとんどの人に試験前日についついテレビを見たり、本を読んだり、ゲームをしてしまった経験が思う」
もしくは、「次の日が大事な日とわかっているのに、緊張で眠れなかったりすることもあるだろう」
これは明らかにおかしい、自分でも次の日が大事(利益)だというは分かっているはずだ。
ならば、心はどうであれ自分自身の利益を求め、勉強をするなり、早く寝るべきだろう。
他にも、不確定な未来、長期スパンの利益、自己犠牲など、心理学的利己主義では説明が付かないことが多いように思われる。
<3>
さらに、具体例をあげたいと思う、マザー=テレサの奉仕活動である。
マザー=テレサについて少し考えてみる。
マザー=テレサはユーゴスラビア(現在はマケドニア)のスコピエという町でうまれた。本名はアグネス=ゴジャ=ペジャンヒューと言い、両親はアルバニア人である。家は薬やであった。両親が熱心なキリスト教(カトリック)の信者であったから、小さいときから教会に通っていた。アグネスが12歳になったある日のこと、神父から聖フランシスコの話を聞いた。また、その神父からインドへ行って、貧しい人々のために働いてる宣教師の話も聞いた。その二つが彼女の人生を決めることになった。17歳のときに「一生を神に捧げ、貧しい人のために働こう」と決心した。女学校を卒業しアイルランドのダブリンにあるロレット修道会に入り、そこから船で一ヶ月かけてインドのカルカッタに渡った。インドでまずやったことは、修道院の敷地の中にある聖マリア高等学校の教師である。そこで地理などを教えて19年間教師を勤めた。しかし、しだいに次のような思いが心に沸き起こってきた。「私は、何もかも整った学校で、恵まれた子供たちに神の愛を教えている。けれども、神の愛を本当に必要としてるのは、学校の周りにいる貧しい人たちではないのかだろうか。私はあの人たちの力になるためにインドに来たのではなかったのか」。そして、1946年9月10日のこと、テレサは、汽車に乗ると、聖書を開いたが、カルカッタの町の様子が目の奥にちらついて落ち着かなかった。道端に倒れてそのまま死んでしまったお年寄り、捨てられた赤ちゃん、飢えで病気になった人、家もない貧しい人々、神はあの人たちに何をお望みだろうか。そう思ったそのとき、テレサの心にはっきりした声が聞こえた。「あなたはすべてを捨ててスラムにでなさい。そこで、もっとも貧しい人々の中にキリストを伝えなさい」そして、この声がそれ以降の彼女の道を決めることになった。
これ以降のことは有名である。「神の愛の宣教者会」という新しい修道会を作ったこと、「死を待つ人の家」を作ったこと、さらに「孤児の家」「休憩の家」「平和の家」などを作り、1979年にノーベル平和賞を受賞したことなどは言うまでもない。
また、次のようなマザー=テレサの言葉もよく知られているみたいだ。
「家がないということは、石で造った家という意味だけではなく、自分を招き、受け入れてくれる人を持たないという意味で家なしなのです」。
「人間にとって病気よりも貧乏よりも悲しいことは、誰からも相手にされないことです。自分はこの世にいらない人間なのだと思い込むことです」。
あるいは来日したときに、次のように述べたことも有名である。「私はこの豊かな国で大きな心の貧しさを見ました。日本は美しい国なのに、なぜ誰も道に倒れている人に手をかそうとしないのですか。その人が飲んだくれだからでしょうか。でも、この人も誰かの父、誰かの夫、誰かの兄弟ではありませんか。人間にとって本当の貧しさとは、社会から見捨てられ、自分は誰からも必要とされないと思うことです」。
マザー=テレサの活動の根底にあったものは、神に仕えること、あるいは「神のためにすばらしいことをしよう」ということであった。だから、彼女は利己心に基づいて行動したわけではなかった。
これは、心理学利己主義のように、誰もが利己的に行動すると相反しているように思われる。
また少し彼女が来日したときの言葉について考えてみたいと思う。
彼女が来日した当時から比べて、更にその傾向は顕著になってきているのではないだろうか。マンションで隣の老人が死んでいても誰も気づかない、年々自殺者が増えるなど、孤独死が増加 している。これは、「社会からも、周りの人からも弾かれ相手にされない、この世にいらない人間だ」と思う人が増えてきているのが、孤独死などの増加の原因ではないだろうか。
ついこの前、秋葉原通り魔事件が起こったのは覚えが新しいと思われます。
詳しくは述べないが、容疑者は、会社にリストラをされたと思っている。唯一のネット仲間にも見放されていた。
また、容疑者は工場の人員削減計画にこのように述べている。
《中には、辞められたら困る、と言われる人も居るようです そんな人でも、居なくなっても工場は普通に稼働できてしまいます 本当に必要とされている人はいるのでしょうか》
容疑者は、犯行前に携帯サイトの掲示板に100回以上も投稿している。
これは自分の犯行を誰かにとめてほしかったのではないのだろうか、とも思われる。
マザー=テレサの言葉どおりに容疑者は、社会から見捨てられ、自分は誰からも必要とされていないと思ったのではないでしょうか。
私は、容疑者を弁護するつもりはありません、犯罪行為そのものは絶対に許すことはできないからです。しかし、今の社会が変わらない限り同じような事件がまた起こる気がするのです。
少し長くなりましたが、人間はとても複雑です、黒か白かなんて割り切れるものは少ないでしょう。もし心理学的利己主義が正しいなら彼の葛藤をどのように説明するのでしょうか。私には わかりません。
<4>
次に倫理的利己主義ですが、結論から言うと私はこれを肯定します。
倫理的利己主義の定義とは、「人はもっぱら自分の私益を追求すべし」という思想である。
つまり、「行為の善悪や正否のよりどころは自分自身の最大幸福であり(原則)他人に被害があってもかまわない」ということになる。
一見ひどいことを言っている気がするのですが、詳しく言うと三つの定義があり。
(第1定義)私益を追求することが究極的行動原理である。
(第2定義)他人を助けるなとは言っておらず、あなたの利益と他人の利益が一致し、あなたがあなた自身を助けることによって、否応なく他人を助けている場合もある。他人を助けた場合 にもその行為が正しいのではなく、行為を正しいものにしているものは、そうすることが自分の好都合になるという事実なのである。
(第3定義)自分の利益を追求するといっても、目の前の快の追及を命じるものではない。われわれは長い眼で見て、本当に自分の好都合になることをすべきであると命じるのである。
後に説明として記述する場合、(第1定義)(第2定義)(第3定義)よりと述べる。
先ほどのマザー=テレサであるが、倫理的利己主義なら説明を付けることができる。
マザー=テレサの根底にあるのは、神に仕えていることであり、神のためにすばらしいことをしようというものである。
授業であった、リンカーンの例もあるように、もし彼女が途中ですべてを投げ出していたなら一生心の平穏はやってこないだろう。
ここで付け加えておくが、心理的利己主義の場合はこれに当てはまらないと考える。利益と私益は違うものであるからだ。マザー=テレサは明らかに利益を求めてやっているのではない。怪 我をしたから病院に行く、歯を磨く、ご飯を食べるのと一緒であり、神のためにすばらしいことをしようという私益である。
マザー=テレサは(第一定義)私益を追求したからこそあのようなすばらしい行為ができたのだと思います。
<5>
では、ここで最初のほうに述べた、「なぜエゴイストは褒め言葉で使われないか」を考えてみたいと思う。
言葉というのは、多くの人が使っていき、時代ごとに変化していくものだと思われる。(ここでは詳しくは追求しない)
それを踏まえ考えていくと、キリスト教もそうだが、他の主な宗教も利己的であるのはよろしくないと説いている。また、一般的道徳観も利己的(自己中心的)なのはよくないと言っている 。
つまり大多数にとって、利己的なのは悪いことなのだという刷り込みが何百年続いてきたわけである。
さらに、倫理的利己主義の(第2定義)で説明がつく。他人と利益が重なる場合はよいが、相反した場合はあなた自身を優先しなさいと言っているのである。人間社会でこれは当たり前のよ うに行われている。小学校の運動会で1位を目指す、受験で高校や大学を目指す、企業が業界上位を目指す、など明らかに自分と他人の利益が相反している、これは利己的である。また、裏 金で教師枠を勝ち取る、自社株をあげるために風説を流すなども利己的の典型例である。
しかしながら、不思議なことに前者と後者では世間の反応は変わる。前者はよいことだと推奨され、後者は悪いことだと批判されるのだ。(最近は、前者も競わせることはよくないという意 見もあるがここでは述べないでおく。)
ではなぜ、同じ利己的(エゴイズム)であるのに反応が変わるのか。それは、「フェアかフェアではないか、法律に反しているか反していないか」ということである。
しかし、前者も後者も結果自体は変わらなく、蹴落とす行為そのものは同じである。前者は、法律を守っていれば、どんなことをしても他人を蹴落としてもよいというエゴイズムなのである 。
これは当たり前のことで「どこが悪いんだ」と言う人も多いだろう。しかしながら、子供に直球でこの事実を言う人もあまりいないのも確かである。
つまり、(第2定義)は人間の本質ではあるが、みんなそのことを深く考え始めると罪悪感で生きていけなくなるため、見ないことにしているのではないかと思われる。料理店に行き、おな かがいっぱいで料理が食べられなくなり残したとき、または食べ過ぎた時に、私たちは今餓死しているアフリカの子供たちの顔を思い浮かべ考えるだろうか。残した為に又は食べ過ぎた為に 餓死する人が増えるかもしれないということを、また考えたとしてどうするのだろうか。
私はその二つが、エゴイストが人間の本質であり、マザー=テレサのような事例がありながら、褒め言葉に使われない理由であるように思われる。
<6>
最後に、倫理的利己主義を批判する意見であるがそれについて自分なりの考えを述べていこうと思う。
レイチェルズの批判意見であるが、「第一に、道徳についての一つの考え方は、われわれの諸利益が衝突に至るから道徳上の規則を必要とするというものである。道徳は衝突の解決のために ある。しかし、倫理的利己主義は利益の衝突を解決する助けにならない。むしろ、それは衝突を激化させるだけである。だから、倫理的利己主義は正しくない。」
これは「倫理的利己主義が正しくない」説明にまったくなってない。「関係者全員がともに調和して生活できるように解決できるものではならない」としているからである。私から見て、そんなことは不可能であるように思われる。人間の歴史を見ても、今を見てもそんなことはありえないからである。
そもそも、衝突を激化させるだけであると述べてあるが、私はそうは思わない。潰しあうより互いに調和することが一番の利益である場合も多々あると思うからだ。
むしろ、日常的におこるいざかいが調和的に解決する場合はお互いがそれが一番自分にとって利益的だと考えたからじゃないだろうか。争いに争った場合、「あなた自身が精神的にも肉体的 にも疲弊し、勝利はしたもの利益は乏しい」なんてことも多いんじゃないだろうか。それが(第3定義)長期的な利益に即してるように思われる。
<7>
次に、人生とはいわば「闘技場」であって、各人が一番になろうと闘争し合う一連の長い衝突であるという考えは倫理的利己主義に多いらしい。
たしかに、倫理的利己主義から考えても何もおかしくはない。むしろ、それこそ今までの人間の歴史なのかもしれない。
だが時代が変わればこれも間違っていると言いたい。人間は本当は何が自分にとっての利益であるのかを正しく判断してない場合が多いように思える。それが(第3定義)長期的展望である 。
ここである話をしようと思う。
私は、「コードギアス反逆のルルーシュ」というアニメを取り上げることにしたい。
この作品を取り上げるのは、私は上記(闘技場)の利己的利己主義の考えとは違う考え方をもっていることを説明するためである。
作中、7話で皇帝の演説にこのような台詞がある。
「世界は嘘を付いておる。人を殺してはならない。盗むな、欺くな、姦淫するな。全ては嘘。まやかしに過ぎぬ。殺されたくない、盗まれたくない。だから、正義や倫理という嘘で弱いその 身を護っておるのだ。原初の真理とは弱肉強食なり。喰らうのだ、人も富も権力も、世界そのものを。我等ブリタニア(国の名前)こそが世界の嘘を壊し、真実をもたらすのだ」
倫理学的利己主義は「人はもっぱら自分の私益を追求すべし」「行為の善悪や正否のよりどころは自分自身の最大幸福であり(原則)他人に被害があってもかまわない」
ということである。一見すると後者の弱肉強食(闘技場)を強調するように思われるが、それは違う。
前文の、「世界は嘘を付いておる」の部分である。これこそが倫理学的利己主義の真実
のように思われる。
殺されたくない、盗まれたくないから、法律を作るのであって、人々がもっぱら自分の私益を追求した結果、法律やルールが出来たのではないかと思う。(第2定義)からすると他人に被害 があってもかまわないが、自分にも被害が来るのは好まないという考え方である。私は多くの人が無法地帯を好むことはないと思うからだ。
「人生は闘技場のようなものである」やはりこれは一理ある。しかし、それよりも平和に暮らしたい。今の暮らしを守りたいから、共に利益を一致させようという考え方のほうが私はしっく り来る。
それこそが「長期的にみて自分の最大の利益」であるのだと。これは(第三定義)の記述にも即している。
時代が変われば価値(利益)も変わる、その具体例としては環境問題であろう。
今まで「人生は闘技場だ」と考えられてきた為、人間は環境を無視してでも産業を発展させることこそが、「長期的にみて自分の最大の利益」だと見てきたのである。その為、環境の為に戦 争が起こることもしばしば起こりえた。
ところが最近の話であるが、環境問題に各国が動き始めたのである。経済発展を多少おさえようとも、環境に取り組もうというのだ。さらに、お互いの国が話し合いながらの環境問題への取 り組みである(一部不参加)。これは各国が環境活動に取り組むことが、奪い合うよりお互い利益を一致させたほうが「長期的にみて各国が最大の利益であると考えた」のであろう。
<8>
最後の批判として、われわれは互いに平等であるという認識を、倫理的利己主義は受け入れられなくするというものである。倫理的利己主義は、われわれを二つのグループに分けている。特 別な人間とそうでない人間である。では、「その境界線はなんなのか」ということになり、明確にないなら全員満たされるべきであるという批判である。
これについてだが、私は両方批判させていただく。
また「コードギアス反逆のルルーシュ」6話 皇帝の演説より引用させてもらうが。
「人は!平等ではない・・・。
生まれつき足の速い者、美しい者、親が貧しい者、病弱な体を持つ者、
生まれも育ちも才能も、人間は皆、違っておるのだ。
そう、人は、差別されるためにある!
だからこそ人は争い、競い合い、そこに進歩が生まれる。
不平等は!悪ではない・・・。平等こそが悪なのだ!
(一部割愛)」
まず、これを読んでわかるように、二つのグループなど存在しない。人間を二つのグループに分けることは不可能である。人間を分けようと思っても数万種類くらいになるのではないだろう か。
ゆえに、私は人間は平等ではないと思われる。だからといって、人間を平等にしようという考え方が間違ってるとは思わない。「平等はいいことか」と問うと、私を含めほとんどの人が平等 はとてもいいことだと答えるだろう。だがここで問いたい、「平等とはどういった状態のことを指すのだろうか」「果たして、今の世界は平等なのだろうか」答えられる
こんなことを言うと、私は冷たい人間だなど言われるかもしれないが。
そもそも、われわれは平等であるという認識は本当にあるのだろうか。口だけ、もしくは、一部グループのみで適用されていないだろうか。私は「日本国民が本当に世界中の人々は平等であ る」と強く言えるのだろうか疑問である。私はそんなことは言えない。
もし言えるなら、今の生活を投げ出してマザー=テレサと同じことをするべきだと思う。
故に、人間はエゴイズム(倫理的利己主義)である。しかし、エゴイズムには世間の価値観から見ると二種類あるように思われる。
「極一般的な意味で使われる良くない意味のエゴイズム」と「マザー=テレサのような賞賛されるエゴイズム」である。
極一般的な例は最初に述べたような極日常にありふれている事例である。
賞賛されるタイプのエゴイズムはおおまかに分けて二種類あるように思われる。
社会的によいと判断される私益を追求する(例)マザー=テレサ。
共に利益を一致させることで(第3定義)「長期的にみて自分の最大の利益」である(例)温暖化対策。
この二つが個人間、異なった文化、国同士でよいとされるエゴイズムではないだろうか。
終わり
ここまで読んだ人ありがとう、お疲れ様(@w@)ノシ
無題
無題
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